祖母と彼岸の墓掃除へ。帰りの車で、行事が墓だけではないと知った

秋の彼岸の墓地に置かれた木の桶と柄杓、竹箒と、足もとに咲く彼岸花を描いた水彩画 日記
この記事の要点を60秒にまとめた概要動画です(ナレーションは音声合成、映像は生成AIで作成)。

彼岸に入ったので、祖母と墓掃除に行ってきました。

実家の墓です。父が入っています。五年ほど前に亡くなりました。ひとり親だったので、あのとき残ったものは全部こちらに来ました。家と、畑と、道具と、この墓です。

草より先に、祖母の歩き方のほうが気になった

掃除そのものは、たいした手間ではありません。草を取って、水をかけて、花を替える。それだけです。

気になったのは、祖母の歩き方のほうでした。お盆に会ったときも、座ったところから立ち上がるのに時間がかかるようになったと思いましたが、今回は歩くほうです。墓地の中は地面が平らではありません。少しの段差で足が止まる。止まってから、もう一度足を出すまでに間があります。

手を貸そうか迷って、結局、少し前を歩いて振り返る形にしました。手を引かれるのを好む人ではないのと、自分で歩けているうちは自分で歩くほうがいいのだろうと思ったからです。これが正しかったのかは分かりません。

墓だけではなかった

帰りの車の中で、この先の話になりました。そこで初めて、行事が墓だけではないことを具体的に知りました。

家には仏壇があります。それとは別に、寺へ参る行事が年に四回あるのだそうです。祖母はこれを全部こなしています。そして寺へ行けば、そのたびにお布施を包みます。

祖母は年金で暮らしています。年に四回、決まった時期に、決まった額に近いものを用意する。家計でいえば固定費です。しかも本人にとっては、減らすという発想そのものがない種類の固定費だと思います。

私はそこまで考えていませんでした。墓の草の話だとばかり思っていて、行事の回数と、そのたびに出ていく金の話だとは思っていなかったのです。

言いにくいことを、言った

それで、車の中で伝えました。四回全部に行かなくてもいいのではないか、という話です。

言いながら、これは踏み込みすぎかもしれないと思っていました。祖母にとっては信仰と習慣の話で、こちらが出しているのは費用と体力の話です。同じ土俵に乗っていません。それに、続けてきたものを外から数えて「多い」と言うのは、あまり感じのいい言い方ではありません。

祖母は、そうねえ、と言いました。それ以上は言いませんでした。否定もされていませんが、納得された感じもありません。

ただ、言っておいてよかったとは思っています。こういう話は、動けなくなってからだと選択肢が減ります。減らす決断をするのは本人でいいけれど、減らしていいと知っているかどうかは別の話です。知らないまま続けて、体か金のどちらかが先に尽きるのがいちばん困る。

物置の刈払機を、まだ出していない

もう一つ、この日ずっと頭の隅にあったのが畑です。

父はトラクターと刈払機を残してくれました。どちらも物置に入っています。刈払機は私でも使えます。使い方が分からないわけでも、道具がないわけでもありません。ただ、手をつけられないまま放置が続いています。

理由は時間です。平日は朝が早く、帰りも遅い。土日に行こうと思うたびに別の用が入ります。行こうと思ってから行けていない期間が、季節を一周するくらいの長さになりました。

道具があって、やり方も分かっていて、それでも進まない。仕事でもよくある形です。うちの現場でも、機械が揃っているのに工程は止まります。たいていは人の時間が別の工程に取られている。畑も同じで、足りないのは刈払機ではありません。

父が残してくれたのは、たぶん道具そのものではなくて、道具を使う時間がある暮らしのほうだったのだと思います。そこだけが引き継げていません。

墓は、今日で片づきました。畑は私のところで止まったままです。覚えているのは、段差の前で祖母の足が止まった数秒と、車の中で「そうねえ」と言われたときの間です。次の彼岸までに、一度は刈払機を出そうと思います。

この記事のアイキャッチ画像は生成AIで作成しています。実在の人物・場所を描いたものではありません。ナレーションは音声合成です。

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