今日は休みだった。休みといっても丸一日自由になるわけではなくて、高校1年の息子をバドミントン部の合同練習に連れていく予定が入っていた。他校と合同でやる日らしい。
車に乗せて出発した。それで、目的地に着くまでのあいだ、ほとんど会話がなかった。
眠かったのだと思う
怒っているとか、機嫌が悪いとか、そういう感じではなかった。単純に眠かったのだと思う。高校生の朝は早いし、部活の日はさらに早い。私が同じ歳のころも、たぶん似たようなものだったはずだ。
だから何か問題があったわけではない。ないのだけれど、静かな車内でハンドルを握りながら、こちらは勝手にいろいろ考えていた。話しかけるべきか、寝かせておくべきか。何か聞いたほうがいいのか、聞かないほうがいいのか。
結局あまり話しかけなかった。それが正解だったかどうかは、今も分からない。
昔みたいには笑わない
ふと思ったのは、そういえば昔みたいには笑わなくなったな、ということだった。
小さいころは、何がそんなに面白いのか分からないようなことでずっと笑っていた。今はそれがない。無愛想になったわけではないし、家の中でまったく喋らないわけでもない。ただ、あの頃の笑い方はもうしない。
これはたぶん、当たり前のことなのだと思う。高校生が親の車の中で小学生みたいに笑っていたら、そちらのほうが心配になる。頭では分かっている。分かっているのに、思ってしまったものは仕方がない。
読もうとしてしまう癖
私は昔、自衛隊でレーダーを見る仕事をしていた。画面に映る小さな点から、それが何で、どこへ向かっているのかを読み取る仕事だった。その後は和菓子屋の店長を13年やって、お客さんの表情や声の調子から、言葉になっていないものを拾おうとしてきた。今は会社で採用の面接もする。
つまり、ずっと「黙っている相手から何かを読み取る」ことをやってきたわけだ。それが仕事の中では役に立ってきた。
ただ、その癖は息子に対しては空回りする。黙っているのを見て何かを読もうとするのだけれど、読める材料がそもそもない。眠いのか、疲れているのか、単に喋りたくないだけなのか。仕事で使っている道具を家に持ち帰っても、うまく機能しないことがある。
今日はそれをはっきり感じた。読もうとしないほうが、たぶんいい。読もうとしている気配は、相手に伝わってしまう気がする。
連れていくことは続ける
それでも、送っていくこと自体はやめないでおこうと思う。
会話がなくても、同じ車に30分なり乗っているという事実は残る。今日みたいに何も話さない日が続いたとしても、乗せていく機会がゼロになるよりはいい。何か話したくなったときに、話せる場所が用意されているかどうかだけの問題だと思っている。
親のほうが用意しておけるのは、たぶんそのくらいだ。中身までは用意できない。
帰り道も静かだったら、それはそれでいい。眠っていてくれても構わない。
この記事のアイキャッチ画像は生成AIで作成しています。


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